江戸時代は現代と比較すると、衛生事情も悪く、設備も整っていません。トイレや生理用品など、女性たちの苦労は大きかったようです。
ここでは歴史を語る上で、あまり話に上らないトイレ事情について、紐解いてみましょう。
意外な発見があるかもしれませんよ。
トイレにドアがついてなくて大変だった??江戸時代の女性のトイレ事情とは!?
トイレにはちゃんとしたドアがなかった!?
今ではトイレにドアがないということはあり得ませんが、江戸時代の長屋のトイレのドアは半分だけしかありませんでした。下半分だけ隠れるようになっているため、上からのぞけば中は丸見えです。
男性が立って用をたしているときには、中に人がいるのが分かりますが、しゃがんでいれば中にいるのかどうかわかりません。
そのため、しゃがんだ状態で頭を上げて、中にいることを知らせる必要もありました。
女性の場合には、のぞかれる心配が常にあり、落ち着いて用をたすことが難しかったようです。
たまった糞尿は売っていた!?
江戸時代には人糞は農家にとって貴重な肥料でした。そのため農家の人たちが定期的に糞尿を買い取りにきて、処分してくれたのです。
長屋の場合には、糞尿の処分費として受け取ったものは大家のものとなりました。
一般の家庭でも、農家に売っていました。代金は現金で支払われる場合もあれば、農家の作物との現物交換の場合もあったようです。
引用元-江戸時代のトイレ事情~糞尿は農家に売っていた
- 江戸時代のトイレのドアは下半分だけ
- 糞尿は肥料に使っていた
ドアが半分だけでは、中にいることが分かっても分からなくても落ち着いて用を足すことはできなさそうですよね。排泄には副交感神経が関係していますが、そんなリスキーな条件だと交感神経の方が優位になって出るものも出ないのでは?と思ってしまいました。
トイレットペーパーが出来たのっていつ??江戸時代の女性はもう使っていたの?
江戸時代にようやくトイレットペーパーが出た
とはいえ、これは都市部に限ったことで農村部ではワラなどをトイレットペーパーにしていたそうです。全国的に紙を使用するようになるのは明治時代も中頃を待たなければなりません。
で、江戸時代の都市部でトイレットペーパーとして使っていた紙とはどのようなものだったのかといいますと、「浅草紙」と呼ばれる再生紙でした。
浅草紙は墨などがついた古紙を水に浸して叩き漉(す)いただけ、といったとっても簡単な再生紙。
浅草紙は、紙としては粗悪品でしたが値段も安く、庶民もトイレットペーパー(落とし紙)として利用しました。ちなみに、紙は備え付けではないのでトイレに行く度に浅草紙を持参したそうです。
その浅草紙ですが、安いといっても1枚1文(約15円)しました。なのでムダにはできません。
リサイクル意識は今より発達していた?
しかし、そこはリサイクル都市・江戸、もちろんリサイクルします。使用済みの浅草紙はストックしておいて屑屋が買い取り、また再生されたというのですから、とってもエコ!
引用元-江戸時代のトイレは紙があった?現代とは違う驚きのトイレ事情をまとめた(2) | 江戸ガイド
- 江戸時代、都市部では、トイレットペーパーに当たるものがあった
- トイレットペーパーとして利用していたのはリサイクル紙
上質のものでないとはいえ、江戸時代、既に紙を利用していたのですね。紙はまだまだ貴重品ゆえ、トイレ用に使っていたとは思いもしませんでした。それでも一部の人たちだけだとは思いますが。粗悪な再生紙といえど、藁よりはお尻に優しいのかな?
将軍のトイレは女性が控えてお世話してた!?江戸時代の驚くトイレ事情!
江戸時代の公衆トイレ
江戸時代には、幕府公認豪華公衆トイレが作られました。板で囲った大きな大便受けと、小便溜めの樽が樋でつながっている本格的なものだっと記されています。
また、小便所には、間口4.5メートル、奥行き7.2メートルの広さの休憩所が設けられ、中には腰掛けがありました。利用者には、管理人が湯茶の無料サービスをしていました。こうした無料小便所は、江戸には10か所に設置されていました。その運営費は年間500両(=今の約4000万円)。莫大な経費がかかっていたのですが、当時は、糞尿が肥料として売買されていた時代。この運営費は、すべてこの売買によってまかなわれていたそうです。
将軍のトイレ事情
徳川将軍の御用所(将軍のトイレは、御用所と呼ばれていました)は、四畳半の広さ。前方には御殿女中が控え、後方の中央に総ひのき作りの便器がありました。長さ85センチ、幅45センチ、高さ91センチという白木の箱でした。
将軍が用を足している間、冬であれば箱の一方に火鉢を置き、お尻から風邪をひかないようにし、また夏は御殿女中が扇子であおぎ、暑さと蚊を追い払っていました。
引用元-2/2 江戸時代のびっくりトイレ事情 【トイレ】 All About
- 幕府公認の公衆トイレは管理人付き
- 徳川将軍のトイレは、女中がお世話
ヒノキ造りのトイレとはなんと豪華な!抗菌性や耐久性を考えると、他にも適していた材料はありそうな気がしますが、そこにヒノキを使うのは将軍用ならではなんでしょうか。しかし、常に傍に人がいる状態で用を足すのは落ち着かないような気がしますが。
昔の女性の下着事情とは?江戸時代の生理用品ってどんなの??
紙や綿が使われ始める
江戸時代になると、紙の値段が下がってきたこともあって、懐事情にゆとりのある女性は和紙(浅草紙という再生紙)を折り畳んで性器に当てがい、上からふんどし状の布で押さえていました。
またタンポン式の生理用品として、和紙や布を丸めて膣の中に詰め込んだり、吸水性のある海綿にヒモをつけて用いていたともいいます。
庶民はもっぱら布派?
とはいえ、庶民にとって紙の値段はまだまだ高かったようで、紙といえども使い捨てにしないで洗って何度も使ったり、紙は使わずに相変わらずボロ布などで対応するのが庶民流だったとか。
現代では、衛生用品を買えないほど貧乏している人は稀ですから、昔は今と比べても経済格差が露骨だったと言えるかもしれませんね。
引用元-生理とナプキンの歴史と女性の体
- 生理用品として紙や綿を使う人も出てきた
- 庶民はボロ布を使う方が多かった
和服は下半身が筒状になっているので、衛生上はあまり良いとは言えません。生理中であれば経血が下に落ちたり服ににじんだり、女性たちは気が気ではなかったのでは?当時はそれが当たり前だったかもしれませんが苦労がしのばれます。
今も昔も女性はお洒落好き!?江戸時代の女の人はどうやって楽しんでいたの?
色の白いは七難かくす
浮世絵の美人図では、女性はみな色白に描かれています。
「色の白いは七難かくす」という言葉にあるように、江戸時代は色白であることが美人の第一条件でした。
緑色の口紅が流行
江戸時代の白粉(おしろい)は、白一色。主に鉛白粉が使われていました。
白粉は水で溶いて指や刷毛で、顔や首、さらには襟、胸のあたりまで塗りました。
白粉の白さは地域によっても異なり、一般的には京坂の濃化粧、江戸の薄化粧といわれました。伝統を重んじる歴史の古い京坂と、粋を信条とする新しい江戸とでは、美意識の違いが、化粧(白粉)にもあらわれていたようです。
江戸時代後期には「美艶仙女香」という白粉が広く使われるようになり、浮世絵・人情本などにも頻繁に描かれました。浮世絵が、現在の女性誌の広告のような役目も果たしていたのがうかがえます。
引用元-江戸時代の流行〜女性のメイク・ヘアスタイル〜<前編> / 女性のための美容とライフスタイルの情報サイトBimajin ビマジン
- 「色白」は美人の第一条件
- 江戸時代のおしろいは、地域によって濃さに差があった
「色白」がもてはやされるのは現代でも変わっていませんね。一時期「小麦色の肌」が流行っていた時代もありましたが……。今ほどメディアが発達していない時代ですから、地域の文化の差は大きかったかもしれません。直接見て比べてみたいものです。